御座を語る人たちシリーズ(新聞記事より)


この記事は中日新聞の記事であるとして御座の弥吉屋子孫から提供された。
阿児にあるこの社の通信局に確かめてみたが、不明とのこと。
現在その発行元、期日を調査中。
サーファーからのご教示あれば幸いである。

    

御座白浜海岸 (レジャー・旅シリーズの一記事として紹介)

 真昼のギラギラした太陽が、もうすぐ、そこまでー。「夏休みはどこへ行こうか」−と、そろそろ職場や家庭で話題にのぼるころ。「海がきれいで、白い砂浜がずっと広がっていて…と欲ばっていたら、三重県志摩郡の前島(さきしま)半島の先端にある御座白浜海岸。海開きしたばかりの同海岸へ出かけてみた。どこまでも続く白い砂浜、寄せては返す潮騒(さい)が、都会のチリにまみれた心を洗ってくれるよう。海水に半身つかったお地蔵さんの伝説を聞きながら、その純朴な顔つきに、しばし見とれた。
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 ハンドルを握りしめ、名古屋市のはずれから東名阪に入る。つい最近まで新緑に輝いていた山が、いつの間にか○く染まっている。関インターから近畿伊勢道路を経て国道23号を伊勢、鳥羽へ。パールロードにのって、やがて奥志摩。ざっと250`、四時間のドライブだった。

◎最先端、磯の香り

 太平洋に腕を突き出したような前島半島。御座は、その最先端にある。戸数約三百。街の北は英虞(あご))、南が太平洋。どの小道にも、磯(いそ)の香りが、しみ込んでいる。御座白浜海岸は、英虞湾に広がっていた。おだやかな波が、白浜をはんでいる。カーフェリーが行き交う対岸の志摩郡浜島町が、手に取るようにくっきり見える。
 海水浴場・御座白浜海岸がデビューしたのは、十年前。静かな内湾、きれいな水、遠浅、真っ白な砂浜、海水浴場のすべてを満たし、人気は年々上昇している。海水浴客のトップは大阪、次いで名古屋。海水浴客は、まだまばらだったが、昨年は七、八月だけで四十五万人が訪れた。「今シーズンは五十万人を超すやろネ」。化粧直しを終えたばかりの民宿の経営者が、胸算用をはじく。

◎豊富な海の幸を

 民宿は四十軒。収容能力千二百人。ほかに十七のキャンプ場。バンガロー施設もある。民宿は、一泊四千円から。町観光係は「収容数は毎年増えていますが、遊園地や観光施設など、あちこちの海にありがちな俗っぽい遊びがないことと、海の幸が最高なのが自慢です。ゆっくり、自然を満喫して下さい」と自信たっぷり。
 「お兄さん、お参りして行きョ」。軽くひと泳ぎして海からあがると、土地なまりのあるおばあさんに、声をかけられた。近くに、海につかったお地蔵さんがある、という。石仏とも潮仏とも呼ばれているそうだ。海岸から約十分。地蔵仏は、御座漁港のわきの海中に鎮座していた。

◎地蔵尊が夢枕に  

 「志摩町史」には、こう記されていた。昔、漁師・弥吉老人の午睡の夢枕(ゆめまくら)に地蔵仏が立ち「我は御座浦の地蔵尊なり。至心に祈願せんものには、誓って腰より下の病疾を治すべし。我、海水の浸す処にありて、諸人のために常に代わりて苦患を洗浄せん。必ず高所に移すことなかれ」。お告げである。驚いたことに、弥吉老人の子孫がいるという。さっそく訪ねた。漁業、山川孫之さん(五五)=御座一七二=がその人。弥吉−市松−弥之助−弥三市、そして嘉之さん。山川さんは、快く家伝の秘話を聞かせてくれた。石仏は江戸時代に弥吉老人が、漁のとき、拾ったものだそうだ。最初は、波打ち際の岩場に安置、海中に移したのは弥之助さんの妻とめさんだった。終戦直後のこと。とめさんの夢枕にたったのが、きっかけらしい。同じお告げだったが「我には六人の子供あり、お供えは、質より量を」との追加があった。いかにも食糧難時代にふさわしいエピソード。お地蔵さんも、さぞかし、ひもじかったのであろうか。

◎海女さんの信仰

 志摩地方は、海女が多い。お地蔵さんは、いつしかその信仰を一身に集めるようになった。満潮になると、すっぽり海中に沈むこの身の丈六〇aの石仏に、今も婦人病や安産を祈る参拝客が絶えることはない。
 石仏から家並みを通って五百b。ハイキングコースに入る。標高一一〇bの金比羅山を経て、太平洋側の阿津里浜へでた。片道一時間半。山頂からは茫(ぼう)洋たる太平洋と真珠イカダの浮かぶ静かな英虞湾が一望できる。晴れた日には、紀伊長島まで視界が広がるという。

◎もの悲しい磯笛

 とって返して岬山へ。潮風の中で、たくましく生育する常緑樹が茂っているところから”黒森”とも呼ばれている。御座は海開きとともにサザエ、アワビの海女漁シーズンに入った。海女が海面で息をはく、もの悲しい磯笛が、遠く波間を超えて届いてきた。磯笛と、海水浴客の御座白浜海岸のもっとも華やいだ季節でもある。

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